プロフィール
平成生まれ二児の母!
しがらみの無い普通のママが行動します!
プロフィール
平成元年10月16日生まれ、北海道釧路市出身の32才。子どもの事故予防地方議員連盟発起人、幹事長。
5才・7才の姉妹を育てる町田市議会議員(一期目)三人目も欲しいけど現実的に無理…。と怖気づいてる二児の母。産みやすい育てやすい町田にするために何が必要か、いつも自分自身の生活を通して考えてます。保育士資格、離乳食アドバイザー、ベビーシッターの資格を保有。
南町田土日ママの会の代表で、南地域唯一(当時)の子育てサロン(町田市社会福祉協議会認定サロン)を立ち上げ運営。(自分の子どもの成長とともに運営が難しくなり現在休会中)一期目は無所属で立候補、4年間無所属無会派の立場で約70の政策を実現。(ぜひ実績をご覧ください!)
本気で日本の子育て教育を変えるべく、2021年12月に日本維新の会に入党。
政治の世界に飛び込む決意をした瞬間
地元を離れ子育てする中、誰かの力を借りなければ子どもを育てられないと痛感する日々。
もっとあんな支援やこんな支援があればな…。そう思うことが山ほどあった。
そんなある日、娘を連れて認可保育園に遊びに行った日の事。
まだ1才ちょっと位のヨチヨチ歩きの園児が大人用と変わらない大きさのプラスチック製のフォークを口に咥えたまま歩く姿を目撃し、衝撃を受ける。
そばに保育士はおらず、血の気が引いた。
その日から何度もその光景を思い出してはその子と自分の娘を重ね合わせた。
その度に胸が痛み、これまで溜めてきた政治への不信感、子育て環境への不満が爆発。
『私のような普通のママが政治の世界には少ない。
子どもを産み育てている真っ最中の私だからこそ、当事者として気がつくことがたくさんある。
立ち上がるなら、少しでも早いほうが良い。』
そう思い、地方自治の勉強を始め、H29年8月に地域政党【情報公開まちだ】を立ち上げる。
これまでの矢口まゆの歩み
実家、育った環境
北海道釧路市で、長女として生まれました。兄弟は2才上の兄が一人。
兄との喧嘩の日々のおかげで、とても男勝りな性格に…。(笑)
父の実家、母の実家、私の実家、全て1代目の個人事業主です。
そのため、多くの家庭のパパが『土日は休み』と言う事実を知ったのが小学校中学年くらいでした。(笑)
(ちなみに、夫も結婚後に起業し個人事業主に…。これには私も驚きです…笑)
飲食店を経営する父との食卓は、いつも仕事の話が中心で、
新メニューの話、接客やサービスの話、新業態の話、店の内装の話、ライバル会社の話、そんな話で持ちきりでした。
そんな環境で育ったので、アルバイトをしても就職をしても、常に『この会社をより良くするにはどうすれば良いか』を考えてしまう癖があります…。
(そしてその性格が、町田市をより良くするにはどうすれば良いか。と言う考えにつながったのだと思います…)
ちなみに、アルバイト含め仕事をしていた時の心得は、「時給以上、給料以上に働く!」でした。
中学時代
北海道教育大学教育学部附属釧路小学校・中学校卒業
中学時代はソフトテニス部に所属。
地区大会では個人優勝など、記録も残しました。
実はもともと運動神経が悪く、跳び箱も五段すら飛べません…。
小学生の時のマラソン大会ではいつもゲッパから数えて一桁の順位でした…。そのため、テニスも最初はへたくそでした。
でも、それが悔しくて悔しくて…。
皆が嫌がる走り込みの練習は、誰より早く走れるよう毎日死ぬ気で走りました。(そのため、結果的に長距離は大の得意分野になりました)
毎晩家では素振りをしました。素振りの回数はどんどん増えていき、最後には毎日1000回以上していました。
才能が無くても本気になればそこそこの結果は残せることもあるのだなと、身をもってそう感じ、努力することの大切さをしりました。
高校時代
釧路北陽高校卒業
高校時代はソフトテニス部で部長に。
一時は部員がたった六人だった部でしたが、仲間と必死で盛り上げ着実に結果も残し、三年生になる時には二十数人まで部員がふえました。部員六名だった部は、最後には団体優勝も果たし地元新聞にも掲載されました。
部長として大きなプレッシャーに押しつぶされそうになる毎日でしたが、悲しい涙悔しい涙うれしい涙、たくさん泣いて大きく成長できたと思います。
中高の部活動で獲得したメダルや賞状です
専門学生時代
東京製菓学校第一部和菓子本科卒業
「日本の伝統である和菓子の時代がこれから来る!」そう思い、あんこが嫌いなのに和菓子の専門学校に進学するため大都会東京へ。
すっかり和菓子が大好きになり、あんこも大好物になりました★
ひょんな事から、テレビ東京さんの深夜番組「TOKYOマヨカラ」で準レギュラーを一年間勤めました。
ある回では、製菓学校にロケ隊がやってきて将来の夢を聞かれ「和菓子屋さんを経営し、稼いだお金で発展途上国に学校を作りたい」そんな夢を語りました。
就職~フリーター、ボランティア活動
卒業後、とある和菓子屋さんに就職するも、諸事情により半年で退社。
退社後いったんフリーターとなり自分探しの時間を過ごします。
そんな時知り合いから誘いを受け、老人ホームやデイケアサービスで歌や踊りなどでおじいちゃんおばあちゃんを楽しませるボランティア活動を始めました。
その数か月後に、東日本大震災が発生。
当時大混乱の中色々な噂で不安もあったものの、5月から被災地でもボランティアを開始。
初めて福島県に訪れた時、現実を目の当たりにして、今の私に出来ることをしたい。そう思いました。
被災地では、炊き出しや家屋の掃除などから始まり、仮説住宅が出来てからは共同スペースでイベントやワークショップを開催しました。
夏には、食べ物も遊びも全部無料の夏祭りを開催し打ち上げ花火も上げました。
冬に開催したクリスマスイベントでは、ゴスペラーズさんをお呼びしたことも…!
保育園などでは子供たちと踊ったり、パペットを使った人形劇を見せたりもしました。
私は生活費を稼ぐためのバイトが忙しく他のメンバーほど時間を取れませんでしたが、メンバー達が引っ張ってくれたおかげで、月に一回のペースで被災地に行って活動できました。
もっと続けたかったのですが、ボランティアとバイトの両立では生活費を工面するのも体力的に難しく、将来の事も考え就職することにしました。
秘書として東証二部上場企業(当時)に就職
22才の4月、四年制大学から新卒で入社する人たちとほぼ同じタイミングで、株式会社ビケンテクノに就職が決まりました。
秘書業務に従事し、主に社長のスケジュール管理、書類・名刺管理、出張の各種手配、お客様対応などの業務にあたりました。
半年間秘書業務に従事した後、子会社の株式会社マイムコミュニティーの法人社宅営業部に開発営業担当として配属されました。
それまで社内で使用していた営業資料を徹底的に見直したり、新たな営業資料を勝手に作ったり…。
社内では誰かに媚びることなく、自分が経営者だったらどうするのかを考え、良いと思うことは徹底的に実行に移し、営業成績も期待されていた件数をはるかに上回る結果を残したと自負しております。
第一子妊娠~出産、夜泣き地獄
ビケンテクノ入社後22才ですぐに結婚していた私は、24才で第一子を妊娠し25才で出産。
これを機に退社し専業主婦となりました。
核家族で実家が遠く離れた環境での子育ては予想以上に過酷でした。
夫は休みが週に一回しかありませんでした。
その上、娘の夜泣きが本当にひどく乳首が口から離れるとすぐに起きて何時間でも泣き続ける子だったので、毎日おっぱいが娘の口から離れないように細心の注意を払いながら眠りにつきます。(今は添い乳は窒息の危険があると言われておりますのでお気をつけください。添い乳しなくても体力が持つような、行政支援の強化を常に訴えております)
それでも何度も口から外れてしまい、連続して眠れるのは長くて30分でした。
しかも朝まで変な体制で横になっているので肩こりがひどく吐き気がしました。
まさに地獄の日々で、限界が来るとだっこ紐でだっこしたままソファーに座りそのまま朝まで寝てました。(これも今思うと窒息の危険有ですね…)
だっこしていたら、おっぱい無しでも眠ってくれたのです。(もちろん降ろしたらすぐに泣きます笑)
寝不足とストレスがひどく、しまいには疲労で腎盂炎になり血尿と高熱…。
ある時には、娘をベランダから放り投げたくなることも…。
心から愛しているはずなのに…。
一才になるころ、自分で考えたネントレを実施し、ついに夜泣きがなくなりました。
このころから、子育てが一気に楽しくなりました。
ママの極度の疲労は、子どもとママの命を奪いかねない。この経験からそう思っています。
引っ越し~次女出産
長女が1才2か月のころ、二世帯住宅を購入し町田市に引っ越しました。
間もなくして二人目を妊娠しますが、突然の陣痛・出産・入院となった時に誰が長女の面倒を見ればよいのか…。
一階に住むお姑さんはとても元気で頼もしいですが、実年齢を考慮すれば一週間もイヤイヤ期真っ最中の娘の世話を丸投げするのは酷に思えました。
北海道の実家では、愛犬が介護が必要な状態で母も大変そうだったため里帰りは考えませんでした。
何より、年老いた愛犬には最後に穏やかに生活して欲しかったのです。
そもそも、陣痛が来た時にイヤイヤ期で暴れまわる娘をだっこしてタクシーに乗れるのか?タクシーにはチャイルドシートが無いので、陣痛が来ていても抱っこしなければならないかも知れない。
そんなことできる?
悪阻に苦しみながら頭を悩ませました。
いつくるか分からない陣痛出産入院。
この時にすぐに駆け付けて子どもの面倒を見ることが出来る人を一人見つける。
これが出来なくて困っているママは多いのでは…?
そう思いました。
この出来事も、政治に興味を持つきっかけの一つです。この経験から選挙の公約の一つである“大丈夫 里帰りせず 産めるまち”が誕生しました。
次女出産後、政治に興味がありつつも心が揺らぐ時期がありました。
0才と2才を育てながらの政治活動なんて成り立たないのでは…?
そこで、まずは今の自分にできる範囲でママやパパの役に立てることを始めてみよう!
そう思い立ち南町田土日ママの会を立ち上げました。
何もできずにモヤモヤしていた気持ちは一時的には晴れたのですが、「私が本当にやりたいことはこれだけでは無い。」そう自分の気持ちを再確認し、決意。
無謀にも地盤看板ゼロで、引っ越してきてたった2年の友達も親せきもいない土地で無所属で選挙に立候補。
みんなびっくりなこの状況で当選を果たし、現在町田市議会議員として議会内外で政治家として全力投球中!!
当選後2年後には、私が政治に興味をもつきっかけとなった「子どもの事故予防」について専門的に取り組む超党派の議員連盟“子どもの事故予防地方議員連盟”を立ち上げました。議員連盟の活動は全国的にも評価され、マニフェスト対象優秀賞を受賞、SafeKidsAwardを受賞しました。
議員連盟では国への要望、民間団体への要望など活発に活動し成果を残しています。詳しくは実績のページをご覧ください。